40代で留学(後編)

「40代で留学(後編)」は、私が留学にたどり着くまでの長い道のりについてだらだら書きます。よろしくお付き合いください。


自己紹介でも書きましたが、私はこれまでに留学経験があるわけではなく、長い間留学することを夢見ていたのに、ずっと実現することができないまま、41歳になってしまいました。今振り返ると、機会はいつでもあって、単に自分の意思が曖昧で実現できなかっただけという言い方もできると思いますが、あえて今「留学したいけど様々な理由があって無理」だと思っている人のために、その時々で留学を実現できなかった理由と、「こうすればよかった」という今の視点からの振り返りを書いていきたいと思います。

10代

私には兄と姉がおり、二人とも高校時代に交換留学しています。二人の留学生活の話を聞くにつれ、私も海外の生活や文化に憧れを抱くようになりました。他方で、上の2人が留学しているのだから、自分もするのが当然、と思っていたので、高校1年の終わりに、母に「留学したい」と言った時、「そんなこと考えているとは思ってもみなかった」と言われたときはショックでした。母曰く、兄も姉も留学に対して強い動機を持っており、そのために様々な努力をしてきたが、私にはその様子が全くみられない、ということでした。

実際そうだったので、反論する言葉も見つからず、意気消沈している私をみて、母が進めてくれた東京都青少年洋上セミナー(東京都が主催する日中青少年交流事業で、東京都内在住の高校生約400人が船で北京・上海を訪問し、現地の青少年と交流)に応募し、高校2年の夏休みに中国での研修に参加できることになりました。目指していた留学生活とはあらゆる意味で異なりましたが、リーダーシップに対する考え方や、後に仕事にすることになった国際文化交流について学ぶ貴重な機会となったので、満足していました。

仲の良かった友人がバイトをしてお金を貯めてまでアメリカの高校に留学したのを横目で見ていたので、どうしても留学したいなら、バイトしたり、勉強したりして、親にも納得してもらえるように努力すればよかったのですが、当時は大学受験も控えており、そこまでのモチベーションがありませんでした。

大学時代

大学時代は、今振り返ると、サークル(演劇)に明け暮れ、バイトにもそれほど時間を割けないほどだったので、留学のことを真剣に考えることもほとんどなかったような気がします。留学しようにも、費用の面で全く無理だと思っていたので、社会に出て、自分で稼ぐようになってから真剣に考えればいいか、と先延ばしにしていました。

大学4年の秋頃にゼミの指導教授に「就職も決まっていないので、大学院にいくか、留学したい」と突然相談して、困らせたものでした。日本でも、外国でも、大学院に進めるような成績ではありませんでしたし、何を学びたいのかもはっきりしておらず、ただ外国での生活に漠然と憧れていただけでした。お金があればそれでも、勢いで渡航して、その後にやりたいことを徐々に形作っていくことも出来たのでしょうが、お金がない、英語力もない、やりたいことも決まっていないで、フワフワした状態のまま大学を卒業しました。

今振り返ると、学部留学のための奨学金は色々とあるので、お金がなくてもチャレンジしてみる価値はあったのですが、調べもせずに諦めてしまっていたので、やはりそこまで目的が明確ではなかったのだろうと思います。お金がなくて諦めてしまっている人には、声を大にして言いたいです、奨学金などお金はなんとかなるから、留学したいなら諦めないで!と。


20代前半

20代前半最初に就いた仕事で少し資金を貯めることができたので、相変わらずやりたいことが決まっていないのに、「仕事をやめて大学院にいくか留学しよう」と漠然と思っていました。一方で好きな劇団がスタッフを募集しているということを知って、採用面接を受けにいき、「劇団のお手伝いをしつつ、バイトをしてお金をためて、外国の大学院に留学したいと思っています」と、ややはったりめいたことを言ってしまいました。

しかし、意外にも劇団の代表の方から「文化庁に新進芸術家海外研修制度というアーティストや実務者の海外研修のための奨学金のようなものがあり、3年うちで働いたら応募の時推薦してあげるから、うちで3年頑張ってみれば」(専門的な実務経験が3年以上あることが応募要件だった、確か)と言っていただき、24歳の時に劇団のスタッフになりました。この時もまだ、お金がないことが前提で、留学は漠然とした夢でしかありませんでした。

社会人なので、ワーホリとか、お金がなくても海外に行ける方法は本当に色々あるのに、調べもせずに「いつかは」と先延ばしにしてしまっていました。また奨学金の話になりますが、年齢制限を設けているものもあり、早ければ早いほどもらえるチャンスは多いです。お金がないから留学を諦めている人は、ぜひ奨学金を調べてみてください。

20代後半

その後の3年間、特に劇団の海外公演や、招待した外国の劇団の受け入れなど、海外に関わる仕事を中心に担当させていただき、徐々に英語も上達していきました。漠然としていた留学への憧れも、「海外公演をより多くブッキングして経済的にもペイするようなビジネスモデルを学びたい」と、大学院進学ではなく、海外の有力な劇団での研修の方向へと傾いていきました。そして、入団時の約束通り、3年間働いたので、文化庁への応募の際に劇団の代表に推薦状を書いていただきました。しかし、書類審査は通ったものの、面接で落ちてしまい、研修には行けませんでした。

翌年も全く同じように落ちてしまい、がっかりしましたが、反面仕事で海外にいく機会も増えてきていたので、仕事を通して挽回しよう、と前向きに立ち直ることができました。そして、29歳の時に、3ヶ月間だけパリにいくことになりました。相変わらずお金がなく、1年間は無理でしたが、3ヶ月間だけパリでホームステイし、語学学校(フランス語)に通いつつ、現地の劇団の事務所でインターンをしました。この劇団とは以前に日本で共同制作を行ったことがあり、今度は同作品をパリを始めフランスの5都市でツアーすることになったので、その準備をかねて事務所に置いてもらうことになったのでした。インターンと言っても、日本にいてもどのみち私がやることになっていた、出演者各位の労働許可やビザ申請のための書類の収集や、宿泊先の手配、パンフレットに掲載する出演者のプロフィールやその他の原稿を作成していただけなので、本当のところはただ居ただけなのですが、それでもこの期間にフランスの演劇業界の商習慣やツアーブッキングの進め方など色々なことを教えてもらい、その先も海外公演のマネジメントを仕事としていく上での自信がつきました。

この時に改めてフランスに留学する道を追求すればよかったのですが、その頃には行く先々の国で文化の異なる観客に作品を楽しんでもらう仕事を本当に楽しいと思っていたので、仕事の辞め時を考えることができませんでした。20代後半〜30代前半にかけては、仕事に対して自信がつき、他にもやりたいことがあっても仕事のやめ時がわからず時間を作れない、という人が少なくないのではないでしょうか。

30代前半

このようにして、30歳の誕生日も海外公演のため欧州に向かう飛行機の中で迎え、30代に突入しました。相変わらず海外にいきたいとも思っていましたが、仕事はますます充実していて、ここ以上に望むべき職場はない、と思っていたので葛藤していました。

同時に友人たちが続々と結婚していくのを見ていて焦りも感じていました。31歳の時、アメリカで現地機関への勤務経験があり、帰国後日本の大学で教鞭をとっている人と知り合い結婚しました。大学の教員なのでサバティカルで海外に長期で行くこともあるだろう、と期待していましたが、夫も着任したばかりですぐにサバティカルを取得できるわけではなかったので、しばらく待っているうちに、だんだん年齢的にも留学が手遅れになるのではないかと焦りを感じるようになってきました。

自分一人で留学したい、と夫に相談したところ、「子供はどうするの?」と言われ悩みました。その時私は34歳で、子供が欲しいならそろそろ真剣に取り組まなければ授からない可能性も出てくる年頃だったので、とにかく早く子供を産んで、夫はできるだけ早くサバティカルを取得し、一家揃って海外に出ることを目指す、ということになりました。

我が家は結局子どもが1歳半の時、夫のサバティカル取得とタイミングを合わせて私の留学が実現しましたが、子どもを帯同しての留学は、経済的にも時間的にも2倍のデイスアドバンテージでした。子どもの英語習得も目指していたなら納得できたかもしれませんが、我が家の場合はそれを目指すには子どもが幼すぎてほぼ効果はなく、「わざわざ子育てにお金のかかる国へ行き、貴重な勉強時間を子育てに割いた」だけになってしまいました。子どもがいることはこの上ない幸せですし、留学が実現できたことに達成感も感じていますが、出産・育児と留学はどちらも手のかかるものなので、何も同じ時期にバッティングさせるものではないな、と実感しています。親子留学を目指している、というわけでない限り、子育てにお金や時間をかけずにすむタイミングで留学するに越したことはないと思います。

30代後半


不妊治療の開始と前後して、仕事も劇団から公的機関へと転職しました。「海外公演への助成金をもらう側から、あげる側に移ったのね」と言われることの多い、助成団体に転職したのですが、私としてはその点よりも「文化交流を通じて外交上の友好関係を築く」というミッションに魅力を感じ、そのような役割を担う機関で働いてみたい、と思うようになったという点が一番の動機でした。

劇団時代は「どうしたら海外で作品が売れるか」ということを中心に考えながら仕事をしてきましたが、海外に招かれ日本側からも公的な助成やサポートを得ながら海外公演をこなしていくうちに、海外での日本文化に対する好感は、決して自然に発生したわけではなく、様々な派遣事業や現地での活動の積み重ねがあり築かれたものなのだと理解するようになりました。日本文化をもっと広めたい、というよりも、文化交流のためのリソースを持たない様々な国を助けたい、そのための知識やスキルを身につけたい、というという思いが強かったように思います。後々そのようなソフトスキルを活用して外交関係を築くことをパブリック・ディプロマシー(広報外交)といい、特に文化的な魅力を活用して外交上の関係づくりをすることをカルチュラル・ディプロマシー/リレーションズ(文化外交)と呼ぶことを知り、学問分野としても確立され学会もあることを知りました。10代の頃から留学したいとは言いながら、何を学びにいきたいのか明確にできずに過ごし、ようやく30代後半にしてはっきりさせることができました。

結局不妊治療に4年かかり、子供が生まれた時には、私は39歳と8ヶ月でした。長い道のりでしたが、ようやく不妊治療に終わりが見え、ちょうどそのタイミングで夫もサバティカルを取得できることが決まったので、一家揃って海外に出ることを現実的に考えられるようになりました。妊娠中から出願準備を進め、希望する留学先からオファーを得ることができました。お金のことで言うと、相変わらずカツカツですし、あてにしていた文化庁の新進芸術家海外研修制度もまたもや落ちてしまいましたが、そうは言っても社会人歴も15年目だったので、なんとか学費と生活費(一部)は工面しました。生活費の残り、保育園代、渡航費と滞在費、保険などにかなりお金がかかりましたが、夫の勤務校からサバティカルのための手当が出たのでとても助かりました。

40代


本来は2020年9月に留学予定(夫はサバティカルの予定)だったのですが、新型コロナウィルス感染拡大の影響で、夫が職場から許可を得られず渡航できなくなってしまったため、私もコロナ禍に0歳児を抱えて一人で海外渡航する勇気はなかったので、留学は1年延期となりました。

だらだらと書きましたが、お読みいただきありがとうございました。総じてお金が足りないことを原因に真剣に考えてこなかった、と言う顛末を繰り返しているような内容になってしまいましたが、留学を検討している方には、お金のことはなんとかなるので、できるだけ早めに留学を実現させることをお勧めしたいです(反面教師として)。

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