オックスフォード大学院・移民研究修士課程での二学期を振り返る

はじめに

過去記事: オックスフォード大学院・移民研究修士課程での一学期を振り返る①

 先週の金曜日、オックスフォードでの2学期が終わった。無限に続くかのような8週間を過ごした1学期に比べて、冬休みの一時帰国後に大学院がオックスフォードへの帰還を禁止する通達を出したため、日本からオンラインで参加した今学期はあっけないほど早く終わった。その理由はいくつか考えられる。一つは大学院での学習環境に少しずつ慣れたからであり、もう一つはイギリスと比べて行動制限が緩い日本で、しかも家事の心配をする必要のない実家で生活していたからだろう。もっとも、学業が楽に感じられるようになったわけでは一切なく、むしろ、学習形式においても地理的距離においても生活時間においてもイギリスと隔たっている中で、苦悩は遠心力をもって私に降りかかってきた。本記事では、今学期の学習内容を簡単に振り返り、もう1本の記事では今後の進路に向けた活動記録や、オンライン留学特有の問題点を綴るつもりである。

適当な写真がないので、卓上に生けている花の写真を載せる。一輪差しに花を生ける習慣は、日本でも継続している。花の生気は巣篭もりの生活をわずかに明るくしてくれる。

二学期の学習内容

 今学期は必修3科目に加えて自由選択2科目を履修した。その内容は以下の通りである。

必修:

・Migration, Development, and Social Transformation (火曜日)

 こちらは前学期から継続している授業である。全学期は移民研究の理論を一通りさらったが、今学期は毎週ゲスト講師を招待して個別の研究テーマについて語ってもらう形式だった。面白かったのは、欧米における”Smart Borders”(欧米が発展途上国からの移民を効率的に排除するため、国境管理にAIなどの先端技術を積極的に導入していること)の話や、ラトビアの「空虚さ(“Emptiness”)」(ラトビアにおいて、ソ連崩壊後の新自由主義的経済改革・2004年のEU加盟、2008年の金融危機によって、「空虚さ」が地理的風景の象徴となり、人々が生活を理解するキーワードとなり、ひいては新自由主義的経済において国家が個人と集団を放棄する現状を解釈する理論的枠組にもなりうるという主張)に関する話だった。どちらの回においても、あるテーマの第一人者として活躍している研究者が、そのテーマの概要と、未発表論文も含めた自らの最新の研究内容を紹介しており、今まさに学知が産まれているその現場を目の当たりにできる熱い興奮に浸ることができた。

・Methods in Social Research (Quantitative) (月曜日)

 こちらも前学期から継続している授業である。全学期は質的研究の方法論を各回一つずつ表面だけさらったが、今学期はStataを使って統計的調査の方法を学んだ。使用したデータは講師がケニアの難民キャンプで実際に集めたものだった。毎週1時間の授業を視聴し、月曜日に少人数で1時間のチュートリアルがあった。担当教員はインド人で、チュートリアルを担当するのは博士課程の院生だった。チュートリアルでは、最初の数回でStataの使い方を学び、残りでAmerican Economic Reviewの論文を読み進めた。もちろん教え方にはかなり無理があって、初回で標準偏差をはじめとする統計の基礎を、そこから2、3週で回帰分析、t検定、p検定を、最後はRCTをはじめとするインパクト評価の方法を一通り教わったが、正直にいえば表面的なことが辛うじて理解できた程度だった。京大の経済学研究科で修士を取ったi_love_rice君(ブログの共同管理者)に授業のレベルを聞いたところ、経済学の学部上級レベルくらいの内容とのことだったので、それを8週間で理解するのは当然無理に近い。私のように質的調査を専門とする学生にとっては、量的調査ではどのような枠組みを用いて社会的事象を理解するかの一端に触れられて有意義だったが、本格的な量的調査に乗り出したい学生にとっては満足できない授業だったはずである。

・Keywords: Migration Studies & Social Thought (隔週・金曜日)

 こちらも前学期から継続している授業。隔週の授業で、各回ごとに特定のキーワードがテーマに定まっていて、学生が自由に発表して討論できるというものだった。担当教員はギリシャ人の指導教員で、いつも温和な雰囲気を漂わせている人なので、非常にリラックスして受講することができた。

 私は最終週に「自由」をテーマとして発表し、その授業をもって今学期の終了を迎えた。その回では、教員が指定した予習文献を巡って、今学期最も熱を帯びたディスカッションが繰り広げられたので、私のプレゼンは最後のわずかな時間に廻されたが、特に不満はない。問題となった予習文献は、Tenday Achiume (2019) “Migration As Decolonization”である。この論文は、ヨーロッパが国家主権の原則に基づいてアフリカからの「経済的移民」を排除している現状を批判し、アフリカが公的に脱植民地化した現在でも、ヨーロッパの実質的な植民地支配が続いている以上、かつての植民地帝国では域内での移動が自由だったように、現代の「新植民地帝国」でもアフリカからヨーロッパへの移住を正当化することで、分配的正義を実現し、不平等を是正するべきだと主張している。

 授業で大きく議論となったのは、ある学生が「植民地支配の賠償として移住を認めるのだったら、かつての植民地帝国はいつまでも発展途上国の移民を受け入れ続けなければならないのか?それはおかしいと思う。」と述べたことだった。他の学生が様々な意見で代わる代わる論駁を試みるものの、件の学生が「じゃあいつまで受け入れなければならないの?」と聞くと皆口ごもってしまい、時代映画の殺陣を見ているようだった。

自由選択:

・Politics of Urban Mobility in the Global South (月曜日)

 グローバル・サウス(≒発展途上国)において、移住現象がいかなる政治的可能性を持っているかをテーマにした授業で、今学期最も苦しんだものだった。担当教員はコースのコア・スタッフで、ヨハネスブルグをフィールドに研究している中年のアメリカ人である。私はてっきり事例研究に基づいた具体的な話をするものと思っていたが、実際には、例えば正義とは何か、市民権とは何かといった抽象的な話題が毎週続いたのでほとんど分からなかった。しかも、毎週3〜5本のリーディングを予習し、授業を視聴してから1時間半のディスカッションに臨む形式なのだが、授業が毎回20分から30分しかなく、リーディングの内容にはほとんど言及がなかったため、時を追うごとに困惑が深まった。ディスカッションでは毎週一人がプレゼンテーションを行い、別の一人がコメンテーターを務めることになっているのだが、私がコメンテーターの回にはあまりにも分からずに一言もコメントを発せなくなってしまい、かなり精神的に参ってしまった。ディスカッションのある月曜日が近づくと、毎週不安と焦燥でうまく眠れなくなってしまったほどである。

・Migration and Security (水曜日)

 オックスフォード生活を通じてだけでなく、大学入学以降で最も知的な刺激を得られた授業の一つだった。担当教員は単著や論文を精力的に発表し続けている移民研究コースのディレクターで、私たちの入学後に教授に昇格した40代前半のスウェーデン人である。テーマは担当教員がまさに専門分野としている「移住と安全保障との関わり」についてで、主にアフリカ—ヨーロッパ間を事例に、先進国が発展途上国からの移住をいかに国家の安全保障と結び付けるようになったかを学んだ。各回ごとにテーマが決まっており、学生は毎週三本の論文を予習し、一時間ほどの授業を視聴してから、一時間半のディスカッションに参加する。ディスカッションでは、学生が特定の質問に答える形で事前にエッセイを書き、それをプレゼンテーションの形で発表してから全体で議論した。ちなみに、私が発表を担当した回のテーマは「開発の現場でよく使われるようになったレジリエンス・アジェンダは、移住の安全保障化を解除するか?」というものだった。

 授業で読んだ中で、面白かった文献を一本だけ紹介しよう。それはClaudia Aradau (2004) “The Perverse Politics of Four-Letter Words: Risk and Pity in the Securitisation of Human Trafficking”である。この論文では、憐れみの政治(“The Politics of Pity”)とリスクの政治(“The Politics of Risk”)の2語をキーワードに、人身売買の被害者として性産業に従事させられた移民女性が、いかに人道主義的な同情の対象から国家の安全保障上のリスクへと転換させらてしまうかを、フーコーの統治論に基づいて論じている。

 論文の大筋は以下のようなものである。国家が人身売買の対象になった女性を不法移民もしくは違法な売春行為を働いた犯罪者として排除しようとする試みに対して、様々なNGOが「憐れみの政治」を推進している。「憐れみの政治」とは、憐れみの感情が社会の分断を乗り越えてコミュニティを結び付ける働きを持つと同時に、他者の苦痛の原因を取り除こうと促す力を持つ点において、(この論文では人身売買の被害者である移民女性を排斥する国家の試みに反対するような、)急進的な政治運動の原動力となることを意味する。この「憐れみの政治」によって、人身売買の被害を受けた移民女性は国家によってリスクと見なされることを回避できる。しかし、国家は市民や共同体の行動を統治するために、個人や集団の持つリスク、すなわち潜在的な危険性を様々な技術によって算定しようとする。これが「リスクの政治」であり、その特徴は国家が個人の病理検査によってリスクを算定する際に最も顕著に現れる。すなわち、「憐れみの政治」においては救われるべき存在だった移民女性が、「リスクの政治」の一端である個人の病理検査においては、過去に人身売買の被害を受けたことがあり、そのような女性には過去に虐待を受けた傾向にあるという理由で、いつか再び虐待を受けやすいばかりでなく、本人たちが虐待する側になりうるリスクを抱えた存在へと変えられてしまうのである。

番外編・私を憤慨させた授業

 以上紹介した授業のうち、Migration and Securityは最初から履修していた授業でなかった。その理由は、当初履修していた授業で講師が著しく私の気分を害す発言をしたので、その授業をドロップアウトしたためである。当初履修していたのは、Japanese Anthropologyという日本をテーマとした人類学の授業だったのだが、担当講師が初回に放ったジョークがオリエンタリズムそのもので、私はひどく憤慨してしまった。その内容だが、ある学生が「グループワークでプレゼンをしてからエッセイを書くとのことですが、他の学生のアイデアをエッセイに引用する際は注記しなくても平気ですか?」と聞いたのに対して、担当教員が「日本人は集団主義によって特徴付けられるので、エッセイを書く際に引用を注記しなくても問題ないんじゃない?」と半笑いで答えたのである。日本をフィールドにする比較的高名な人類学者が、日本人に対するステレオタイプを平然とジョークにしてしまうことにショックを受けたし、そのステレオタイプが日本の学術的公正性(Academic Integrity)を毀損するものだったことに、一人の日本人学生として大きな怒りを覚えた。

 心の救いとなったのは、この問題についてコース・ディレクターに相談したところ、非常に迅速に対応してもらえたことである。問題の発言について深く尋ねる前に授業の変更をすぐに認めてくれて、他に履修できる科目の一覧を教えてくれたばかりでなく、彼の授業を履修すると決めたところ、わざわざ一対一のミーティングを設けて初回授業の内容を簡単に教えてくれた。オックスフォードの良い面も悪い面もよく観察できた一件だった。

 以上、今学期の学習内容を簡単に振り返った。春休みはテスト対策や修論の準備で忙しくなるが、適切なタイミングで2本目の記事が書ければと思う。

オックスフォード大学院・移民研究修士課程での二学期を振り返る” への4件のフィードバック

  1. “あるテーマの第一人者として活躍している研究者が、そのテーマの概要と、未発表論文も含めた自らの最新の研究内容を紹介しており、今まさに学知が産まれているその現場を目の当たりにできる熱い興奮に浸ることができた。”
    研究大学の博士課程に身を置くことの大きなメリットの一つだと思います。論文が出ているときには、既に新しい研究がスタートしているので、キャッチアップは遅れます。日本の大学だとなかなかこういった外部スピーカー呼べないので、学会頼りになるところがありますが、普段からキャッチアップできた方がいいはずです。
    1時間半のディスカッションは短い印象を持ちました。修士課程だとちょうどいいのかもしれませんが、アメリカの博士課程だと、3時間8-10本くらいの論文がスタンダードかなと思います。

    1. 打越さん、コメントありがとうございます。「論文が出ているときには、既に新しい研究がスタートしている」のは、たしかに重要な点ですね。それにしてもアメリカの博士課程、インテンシブですね…。

      1. 90分を二回に分ける方が効率いい気もしますけどね。さすがに3時間はだれます、zoomだと特に。

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