学部卒業からLSE留学までの6ヶ月: Part2

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3.実際の過ごし方

 2018年4月には、京都大学の大学院に進学しましたが、学部時代に温めていたご縁が繋がり、政治リスク分析コンサルティングファームで世界の第一線にあるユーラシア・グループの東京オフィスでのインターンが決まります。スタンフォード大学での在外研究が始まる7月中旬までの間を、そこでのインターンの時間に当てつつ、会社からの理解を得て、半月をオフィスでのフルタイム、残りの半月を京都でのリモートワークとしました。もともと学術的なバックグラウンドの会社なだけあり、学業優先での業務遂行を許して頂けました。また、エクセルの使い方のようなスキルには当時関心が低く、どちらかと言えば、僕の専門分野である国際関係論が関連する政治リスク分析という業界(ほとんど新卒採用はない)を知りたいということが動機として強かったため、会社が主催するセミナーや社内からあがってくるレポート各種を読み漁り、クライアント宛の資料や翻訳をするというような働き方をしていました。従って、同社の東京オフィスがセミナー・イベントを開催する週に東京に、翻訳などの仕事は京都でやるという2拠点生活が成立しました。

 一方で、京都大学大学院では、2018年度前期は単位をなかば諦め、指導教官のゼミにのみ出席する形式でお許しを頂きました。また、京都では他にも、アカデミアのキャリアを歩まれている先輩方に研究会に呼んで頂き、卒業論文とスタンフォード大学での移民史研究について、2回の研究発表の機会を頂きました。また、ユーラシア・グループでの業務の傍ら、当時激変していた朝鮮半島情勢について、フランス・パリのSciencePOの東アジアの国際関係に関するジャーナルに投稿し、CommentarryとしてAcceptされました(残念ながらそのジャーナルは知る限りでは運営が停止しているようで、第2回めのReviewサイクルで消息が途絶えました)。2018年7月中頃には、渡米し、スタンフォード大学フーバー・アーカイブ・アンド・ライブラリーで、午前は日本関連の史料編纂事業へ参画し、午後はアーカイブを活用した自身の研究を進めました。研究テーマは、1910~20年代のカリフォルニアにおける排日移民運動に反対したアメリカ人、とりわけSidney Gulickの活動と人種思想についてでした。学部時代までは歴史資料(一次文献、未公刊史料とも)を用いた研究は行ったことはなかったのですが、当時の史料を手に取り同時代の様子に思いを馳せながら研究を進めることや、おそらく現代社会では殆どの人が知らないであろう事象や人物に焦点をあて、それが如何に歴史的に、そしてあわよくば現代社会において、意味があるのかを考える思考プロセスは非常に興味深く感じました。そして、歴史研究の手法をこの時期に、自身のアプローチの核に添えようと決めました。

 同時に、学部時代の卒業論文に関連する論文執筆を、LSE留学までの期間にやりきろうと決めていたので、上述の研究会での発表の後に、卒業論文に関連する研究も続けていました。卒業論文は、「国際関係論における『ウェストファリア史観』の形勢とその存立構造」という理論的な研究でした。少し詳しく言えば、近年「ウェストファリア神話」と呼称され批判的な歴史分析が進む「ウェストファリア条約(1648)」の重要性についての捉え直しと、国際関係論という学問の起源についての研究でした。普通、卒業論文といえば、長くても日本語で2万字程度だと思いますが、僕の学部は卒業論文に字数制限がなかったため、僕の卒論は7万字程度にまで膨れ上がり、自分の考えるオリジナリティも卒論全体に散らばっており、論文投稿するにしても1万5千字程度にまでまとめ直すのが大変でした。また、これは僕が卒論を書きあげた際に感じたことですが、理論的に抽象的な議論ばかりを進めた結果、何か「虚しさ」のようなものが自分をしばしば襲うことがあり、当時の僕は、何かより実態のある研究に移行したいという思いがありました。一方で、大学入学前から違和感のあった「社会における学問の役割」について、何かしら批判的な考察を加えたいという問題意識があり、仮に国際関係論の学問としての歴史を、扱いたいという思いは継続していました。

 少し時間は前後しますが、渡米前に読んだ先行研究で、ロックフェラー財団というアメリカの三大老舗財団(残りの二つは、カーネギー平和財団とフォード財団)が、国際関係論で著名な学者たちに資金援助を行い、学術会議を主催したことについて知りました。そこに、フーバー・アーカイブでの史料調査の面白さが加わり、ならばと当時の上司と交渉して、1週間の休暇をもらい、8月の第一週にニューヨークにあるロックフェラー・アーカイブ・センターに史料調査に行きました。そして、そこで集めた史料を使って、論文を書くことにしたのです。

 元から論文をLSE留学前までに執筆することは決めていましたが、その理由の大きな一つをお話するなら、それをLSE留学中の「なけなしの名刺」としようと思ったからです。LSE留学前には、もしかすると僕が将来博士課程、それも日本ではなく海外の博士課程に進学を希望するかも知れないという想定のもとに、その場合に、まずはLSEでの修士留学の間に、少なくともLSEの教授たちに自分を印象付けなければならないと考えていました。従って、確実に留学先で教授と深い研究や進路の話をするためには、何か手にとって分かるものが、その人のやる気や研究能力を「客観的に」示すのではないかと思い、書くなら英語で論文を執筆しようと決めました。そうした背景から、8月より急ピッチで史料読解を、フーバー・アーカイブでの業務や研究と並行して行い、10月末に京都大学大学院研究科が発行する研究雑誌への論文投稿を目指すことになりました。そうこうしているうちに、8月、9月と過ぎ、気づけば、僕はロンドンでの生活を開始し、LSEでの留学が始まっていたのです。

<続きは、米国大学院ニュースレターブログの英国修士課程Taught Masterと日本の大学院の自家製「ダブル・マスター」ができるまで③(LSEでの1年間とその前後)にて>

スタンフォード大学キャンパス内。左に見えるのは、フーバー・タワー。職場であるフーバー・アーカイブ・アンド・ライブラリーは、同タワーの一階。

4: 振り返ってみて

 今(2020年6月現在)、当時の「6ヶ月」を振り返ってみて、結果論にはなりますが、行きあたりばったりの決断が多かったですが、大きな方針であった「研究とインターンを両立させる」という望みは、思った以上に叶えることが出来たように思います。ご縁と運に恵まれたといえば、一言で済んでしまいますが、2018年10月末に提出し、2019年3月に出版された英語論文は、LSEでの指導教官らに読んで頂き、その研究の延長で授業のFinal EssayやDissertation(いわゆる修士論文)を執筆できました。

 また、ユーラシア・グループ東京オフィスとフーバー・アーカイブでの「インターン」経験は、ロンドンの競争の厳しいインターン市場でのDistinctiveだったようで、結果として、アジアハウスというシンクタンク(正確には、シンクタンクと商工会議所的な機能の中間の組織)と大和日英基金という日本関連のセミナーや文化支援を行う財団での勤務経験を得ることが出来ました。

 実際、突き詰めて考えれば、どの経験が評価されたのか、どこまでがご縁や運で、どこまでが実力で勝ち得た機会なのか、という話は、全くわかりません。ここに書ききれなかった、数々の失敗や諦めた機会もあります。おそらく最も重要なことは、振り返ってみて、自分が過去に対して満足できるかという話になると思うので、本記事のテーマでもある海外留学までの「6ヶ月」の過ごし方は、その人次第であると思われます。その過ごし方を考えるにあたって、本記事が少しばかりお役に立てていれば幸いです。

LSEの留学中に関しての記事は
LSE修士課程での1年間:困難・解決策・試行錯誤①
LSE修士課程での1年間:困難・解決策・試行錯誤② こちらからご覧いただけます。

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